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祭祀の形
下鈎遺跡からは、いろいろな場面でのマツリと考えられる祭祀の施設や豊かな道具が見つかっています。一方で、同じ遺跡群の伊勢遺跡からはほとんど祭祀具は出てきません。 同じような祭殿を有しながら、祭祀の性格に大きな違いがあるようです。
祭祀の場

マツリの場と道具(出土品)

弥生時代中期から古墳時代早期まで、時代を通してのマツリの場を図に示します。
下鈎遺跡の祭祀の場
下鈎遺跡の祭祀の場
(滋賀県・栗東市発掘調査報告書より作成)

埋納されている道具や埋納の仕方を見ていると、弥生時代から古墳時代までの長期間、同じやり方で マツリが行われていたようです。時代を通してのマツリの場をすべて示しています。
また、土坑から土器が出土した時、保管していたものなのか、廃棄されたのか、マツリごととして埋納されたのか、なかなか分かりません。土坑の中に完全な形の土器が見つかることはたまにあり、何らかのマツリごとと思われますが、上の図では省いています。

特別な祭祀の場(南の祭祀域)

南の祭祀域、上の図の中央部には、水辺の祭祀として埋納された遺物が数多く出ています。また出ている遺物も特別な品物のようです。他のマツリの場では、1〜3種しか埋納されていないのと比べると、バライエティに富んだ遺物です。
特別祭祀域
特別祭祀域(南の祭祀域)
(栗東市発掘調査報告書より作成)

ここは特別な祭祀場として扱われていたようです。以降、「特別祭祀場」と呼びます。
2つの祭殿区域に挟まれた、川が凹状態に蛇行している付近一帯がその祭祀域です。
ここからは、多くの銅鏃やガラス玉、石杵、弥生時代前期の黒漆の上に朱塗りを施した特別な土器が見つかっています。
弥生前期の土器というと、ここに土器が埋納される5〜6百年前の品物です。それが元の形状を復元できる形で残されていたのですから、長期間いかに大切に扱われてきた祭祀土器であったかが分かります。

北の祭祀域

一方、北の祭祀域では、弥生後期の水辺のマツリの場は見当たらず、祭祀域の性格の違いを感じさせます。
同じ遺跡群の伊勢遺跡の祭祀域と比べてみると、同じような祭殿が区画溝や川で区切られており、よく似た環境ですが、伊勢遺跡からは何も遺物が出てきません。
下鈎遺跡の北の祭祀域は伊勢遺跡と似た性格があったように思えます。
北の祭祀域
北の祭祀域
(栗東市発掘調査報告書より作成)
祭祀の形態

いろいろなマツリの形

弥生時代にも柱や建物に飾る祭祀はあったのでしょうがそのまま残ることはなく、河川跡や土坑からの出土品や建物跡、井戸跡などの地中から見つかる遺物から祭祀の形を推定しています。
現代でもそうですが、弥生時代にもいろいろなマツリの形があったのは想像に難くありません。
祭祀の性格ですが、神聖な祭祀で見せることを目的にせず、首長が厳かに執り行った政治的な儀式があります。もう一つは、下鈎遺跡の特別祭祀域で行われたマツリのように、首長の権威や富を顕示するために多くの貴重な遺物を埋納する儀式があります。伊勢遺跡の祭祀との性格の違いはこの観点で説明できそうです。
祭祀の規模も、クニのマツリから集落、家族のマツリまで様々です。また祭りを行う動機や方法も様々です。出土する場所や、遺物の希少さや数量、埋納の仕方、単発の儀式か繰り返して行われた儀式か、などから、マツリの「格」みたいなものが読み取れます。
 ・水辺のマツリ・・・川岸、井戸、溝 などに土器、玉製品、銅鏃などを埋納する
 ・導水施設・・・聖なる水を得るための儀式で、祭祀具をほとんど埋納しない。
 ・墳墓のマツリ・・・墳丘本体や周溝部へ土器や木器、玉類を埋納する
 ・土坑のマツリ・・・土坑を掘ってそこに土器や祭祀具を埋納する
 ・その他のマツリ・・・建物や柵の柱穴に土器や玉を埋納する

水辺のマツリ

弥生中期では、祭祀域の溝に小銅鐸が埋納されていました。また、溝に隣接する井戸には完全な形の土器が数個埋納されていました。川岸に土器を置くのではなく、川に接した井戸を掘ってそこに土器を納めるやり方の儀式なのでしょう。井戸は水を得るためではなく、祭祀の設備なのです。
川に接する井戸に祭祀具を埋納するやり方は、服部遺跡でも見られます。
弥生後期では、特別祭祀域での儀式が水辺のマツリになります。ここでは土器だけではなく、銅鏃、類例を見ない大きな銅環、水銀朱を作るための石杵、ガラス玉、弥生前期から伝わる朱塗り土器が用いられていました。出土する銅鏃の数の多さや遺物の種類の豊富さから考えて、ここで繰り返しマツリが行われ、首長の威厳と冨を示したものと考えます。
大型の銅環や弥生前期の特殊な土器などは、定常的なマツリではなく、きっとビッグイベントの時に埋納されたものでしょう。
祭祀域の川岸では土器を整然と配置したマツリの痕跡が残されています。20個前後の土器が密接して並べられていました。写真では歯抜けになっている箇所もありますが、窪みが残されており、ここにも土器が置かれていたようです。大きなマツリがあったのでしょう。
井戸に埋納された土器
井戸に埋納された土器
川岸に整列配置された土器
川岸に整列配置された土器
貯水遺構
貯水遺構
【いずれも栗東市教委】

「貯水遺構」と呼ばれている、水辺のマツリに関わるような遺構があります。直径約3mのやや楕円形状の土坑に溝がついている遺構です。弥生中期の水場状遺構として紹介した、円形の土坑に接して溝があり上流側は川に、下流は別の土坑につながっている遺構とよく似ています。
発掘範囲の都合上、周辺の様子が分からないので水源や下流の施設が不明ですが、この貯水遺構から石杵が見つかっています。このことからこの遺構はマツリの場であったと考えられます。
水辺のマツリは、特別祭祀域だけではなく、あちらこちらの溝や川の傍でも行われていました。 北の祭祀域では、溝から手焙形土器が、川からはやまと琴が出ています。
中央の居住域の溝からは手焙形土器や石杵が見つかっています。これらは単発のマツリとして供されたのではないでしょうか。

導水施設

導水施設のことは、弥生時代中期のところで記しました。
古墳時代の大王のマツリの施設として有名ですが、構造的に見ると導水施設と同じ施設が弥生中期の下鈎遺跡で見つかっています。これは、祭祀に用いる浄水あるいは聖なる水を得るためであり、導水施設の中心部である土坑には、土器は埋納されていませんでした。
現代でも、神社では清めの水を得る儀式が行われていますが、同じような浄水を得るマツリが古くから行われていたようです。
古墳時代の下鈎遺跡で、導水施設とよく似た構造の遺構が見つかっています。しかしここには土器が埋納されており、導水施設というより、土坑祭祀のように思えます。
詳しくは「古墳時代の下鈎遺跡」のところで述べます。

墳墓のマツリ

墳墓のマツリとしては、弥生時代の方形周溝墓、古墳時代の古墳近辺で行われていました。
見つかっている方形周溝墓や古墳の数が少なく部分的であり、かつ、後世の地層と差が少ないため墳丘本体が削平されていて出土する遺物が少ないのが実情です。このためマツリの様子があまり良く判りません。
弥生中期の方形周溝墓が4か所で見つかっていますが、周溝部の一部しか出ていません。そのうち1基の周溝から土器片が出土しました。破片が2個なのですが、お墓に土器が供えられていたのでしょう。
弥生後期では、方形周溝墓が1基だけ、それも溝の一部しか見つかっていませんが、土器片が溝のあちらこちらか見つかっており、周溝の数か所に土器を供献したようです。
弥生時代の服部遺跡で360基もの方形周溝墓が見つかっており、周溝の数か所に土器を配置していました。多くの墓の溝に土器が供献されていましたが、全ての墓に土器が供献されているわけではありません。下鈎遺跡の周溝墓からの土器の出土状況は、服部遺跡で見られる土器供献の様子とよく似ており、野洲川下流域では同じような墳墓のマツリを行っていたようです。
古墳時代の墳墓の様子については章を改めて記載します。

その他のマツリ

土坑ではなく、埋め戻された溝や柱穴から土器や水晶が見つかっています。
建物の柱穴から土器が出てくることがあります。柱を立てるときに安全を願って柱穴に土器や祭祀具を埋めることがあるようです。ただ、地盤が軟弱な時には柱穴の底に礎板を敷いたり、石や礫を入れたりします。石や礫の代わりに土器片が使われることもあります。
柱跡(?)に埋納された土器
柱跡(?)に埋納された土器
柱穴から水晶
柱穴から水晶
(参考)沈下防止の礎板
(参考)沈下防止の礎板
【栗東市教委】

そのため柱穴から土器が見つかった時に、その目的がマツリなのか、地盤強化なのかを判じかねます。もしそれが雑多な破片であれば、小石の代わりでしょうし、完全な形に復元できる土器だったら、建設時のマツリ(地鎮祭)と考えられます。
また、柱を抜いた後に土器を埋めることがあります。これは感謝とか清めのマツリでしょう。
祭祀域と祭殿域をつなぐ溝を埋め戻したときに、その溝に土器が埋納(上記写真:左)されていました。これも感謝とか清めのマツリだったのでしょう。
祭殿1の柱穴から水晶が見つかっています。柱を立てる前に地鎮祭として埋めたのか、柱を抜き取った後に清めのために埋めたのか分かりませんが、作業に対してマツリを行ったようです。
現代でも、建物の地鎮祭、葬送儀式など、下鈎遺跡の祭祀と同じようなマツリが行われているのは興味深いことです。
水場状遺構
弥生中期の「水辺の利用/生活の場として」のところで紹介した「水場遺構」とよく似た遺構が弥生後期の祭祀域で見つかっています。川から人工的に溝を数m引き出して、生活用の水として利用する"かばた"状の施設です。
水場状遺構
水場状遺構
(栗東市発掘調査報告書より作成)

弥生中期の遺構とほぼ同じ構造で、祭祀域に隣接する点も同じです。
違うのは、後期の遺構には水場を覆う掘立柱建物が存在することです。中期の水場遺構には覆いとなる建物はありませんでした。でも、中期の導水施設では掘立柱建物が施設の中核となる土坑を覆っていたことを考えると、重要な施設は覆いとなる建屋が付属するようです。
この視点で見てみると、この水場状遺構は日常使いと言うよりは祭祀場のための施設とも考え られます。
水場状遺構の川からは、多量の土器だけではなく、木製品、クルミや桃の核、桜の樹皮などの自然遺物も出ており、生活の痕跡が見られます。 周辺には居住域はなく、祭祀域に関連する生活の場であったのかもしれません。
当時、桜の樹皮は石剣の握り部に巻かれたり、木製品をつなぐ「留め具」などに使われていました。この樹皮が多量に見つかっており、手工業生産の「留め具」としてここで作られていたことも考えられます。

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