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縄文時代
野洲川下流域では、比較的安定して食物採集がしやすかったびわ湖湖岸周辺に縄文遺跡が現れ、中期になると内陸部へ進出していきます。
下鈎遺跡でも縄文・弥生時代の人々の営みを垣間見ることができます。
縄文時代の下鈎遺跡

縄文遺構の分布

野洲川下流域では20数か所で縄文時代の遺物・遺構が見つかっています。弥生時代の遺跡分布に比べると、まばらに点在している状況です。それを縄文早期・前期・中期・後期・晩期、と約1000年単位で区切ってみると、縄文早期や前期では数か所、中期、後期と時代を経るにつれて次第に増えていき、晩期には20数か所に増えていきます。でも、異なる時期の遺物が見つかる遺跡はあまりありません。
しかし、下鈎遺跡で見つかる縄文遺跡は、早期から晩期にわたってみることが出来るまれなところです。
東日本、東北地方では縄文集落が数多く見つかっていますが、近畿や西日本ではなかなか集落の様子が判りません。そんな中、下鈎遺跡では狭い範囲ながら集落とその変遷が垣間見ることが出来る遺構が見つかっており、近畿・西日本の縄文集落を知るうえで貴重な遺構です。
縄文時代の遺構
縄文時代の遺構・遺物の出土場所
(栗東市発掘調査報告書より作成)

建物跡

下鈎遺跡の南端部(上の図で右下)の2重丸で示した場所から、数軒ですが、縄文時代前期の集落の遺構が見つかっています。
多くの柱穴  竪穴住居跡
多くの柱穴(左)と竪穴住居跡(右)
【栗東市教委】

遺構内からは大小の数多くの柱穴やピットが出ています。 柱穴の大きさ、深さ、配置などから判断してここに竪穴建物や掘立柱建物があったことが判ります。竪穴建物は中型が2棟、小型が3棟、掘立柱建物が大小合わせて9棟とみなされています。
建物の竪穴は、なだらかな掘り下げ(お皿状)となっており、弥生時代以降の垂直に掘り下げた竪穴とは異なっています。大きさは約3.5m×4mのやや楕円形となっています。 もう1棟も同じような大きさ構造で、同じ場所での建て替えが認められます。
建物の位置
建物の配置復元図  赤丸:竪穴建物、青丸:掘り立柱建物
【出典:栗東市発掘調査報告書】

掘立柱建物は大型、中型、小型に分けることが出来ます。大型は10数本の柱を円周上に配置し、直径約6mの円形の建物となっています。
この大型建物も建替えられており、その前は細長い6角形の建物でした。用途は、集会場と考えられます。
中型、小型の掘立柱建物は柱を6角形に配置しているものと、方形に配置してあるものが混在しています。中型のものは住まい、小型のものは倉庫と考えられます。
建物の外観に興味がありますが、報告書では、上屋については触れられていません。
縄文時代前期に、竪穴住居と掘立柱住居が並立していること、複数回建替えられて定住が 伺われること、共用の大きな集会場があること、など当時の社会生活の一端が見える興味深い遺跡です。
出土物

土器

見つかった集落に建っていた竪穴建物の中には廃絶後も土器や石器などが多く残されていました。これらの土器の形状や文様から、その土器の年代や型式が判ります。多様な種類の土器が見つかっており、考古学的に貴重な遺跡です。
ほとんどが破片なのですが、形状が復元できた土器の写真を示します。
出土した縄文土器  縄文土器の文様
出土した縄文土器(左)と縄文土器の文様(右)
【栗東市教委】

縄文土器は複雑な火焔土器などの手の込んだ立体文様が有名ですが、近畿・西日本では控えめな形状になっています。
文様は、時代の名前の通り「縄の文様」が基本ですが、当時の人たちは、爪で文様を入れたり、小さな穴を等間隔に開けたり線で文様を彫り込んだり、丸い輪を張り付けたり、いろいろな工夫を凝らしていました。

石器類

縄文時代の石器は少ないのですが、石鏃(せきぞく)や石匙(いしさじ)などが見つかっています。
石鏃は約60個で、ほとんどがサヌカイトです。
石斧も4点見つかっています。
いろいろな石器
いろいろな石器
【出典:栗東市発掘調査報告書】

その他

管玉1個と耳栓がみつかっています。いずれも呪的な装飾品です。
管玉は滑石製で、長さ3.6cm、直径1.4cmです。
耳栓は鼓形をした土製で、長さ2.6cm、太い部分の外径は2cm、胴の部分が1.4cmで、赤い顔料が塗られていました。
縄文の人は、穴を開けた耳たぶにこの耳栓をはめ込んでいたようです。
耳栓と管玉
耳栓と管玉
(イラスト:雨森智美)

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