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集落の様子

トピックス
【下鈎遺跡で青銅製の分銅が見つかっていた!】
後期の遺構から出た環状の銅製品は直径が約13cmもあり、通常の銅釧(腕輪)でないことは明らかです。
このため、この銅製品は長らく用途不明の「銅環」と仮称されてきました。
このたびこの銅環について、「環権(かんけん)」といわれる天秤権(てんびんけん=分銅)の可能性があると、福岡大学の研究者から報告されました。
これは中国から伝わったもので、青銅製分銅は日本で初めての出土です。
  詳細はこちらから ⇒ 青銅製 環権

下鈎遺跡のここが凄い!
伊勢遺跡とともに原倭国(近畿政権)の中核だった

伊勢遺跡と共通する大型祭殿群

弥生時代の祭祀の形と変遷、祭祀の一つの形である銅鐸祭祀の統合の経緯、銅鐸の出土場所や数、また祭殿と考えられる大型独立棟持柱建物群の存在などを見ていると、弥生時代後期後半に銅鐸祭祀のクニがまとまっていく様子と近江南部に銅鐸祭祀圏を統括する勢力があったことが読み解けます。
参考
 銅鐸祭祀圏を統合した近畿政権 〜弥生の祭祀から見えてくる近畿政権 ⇒ こちらからどうぞ
銅鐸祭祀圏を統合した近畿政権 〜近畿政権の中核:近江" ⇒  こちらからどうぞ

弥生時代後期末、30のクニグニにより卑弥呼が共立され、「倭国」が生まれます。この新倭国に対応して、その前段となる大きなクニのまとまりが「近畿政権」とか「原倭国」と呼ばれています。
この原倭国の中核となるのが、伊勢遺跡+下鈎遺跡です。
伊勢遺跡が祭祀を中心に、下鈎遺跡が祭祀と青銅器生産を担っていたと考えられます。
大型建物の数は、伊勢遺跡の12棟にはかないませんが、下鈎遺跡でもこれまでに大型建物が4棟、小型ながら祭祀に関係があると考えられる独立棟持柱建物が1棟出土しており、まだ見つかる可能性があります。
この時代、大型建物がこれだけあるのはここだけで、しかも、伊勢遺跡と下鈎遺跡は1.2kmしか離れておらず、現在の都心で超高層ビルが林立している様子に似ています。

大型独立宗持柱建物
南祭祀域の大型建物群イメージ図(独立棟持柱建物×2棟、平地式建物)
(CG:栗東市教育委員会、MKデザイン小谷正澄)

青銅器生産の拠点?

野洲川下流域では、銅製品や鋳型、炉の部品などが出土している弥生遺跡が結構あります。このホームページシリーズで扱っている服部遺跡や下之郷遺跡からも青銅製品の鋳型が出土しています。
下鈎遺跡では、銅鏃が数多く出土していること、未成品(鋳造しただけでまだ仕上げていない半製品)の銅鏃が見つかっていること、青銅製品の鋳型、鋳造の際に付随的に出てくる銅残渣(銅のカス)や銅湯玉なども出土していることなどを考え合わせると、この地で青銅器を生産していたと考えて間違いないでしょう。
写真に示したもの以外に、銅環、銅釧、小銅鐸、銅の塊なども見つかっており、青銅器生産の拠点集落のひとつであった可能性が十分にあります。
野洲川下流域から湖東地方を見渡せば、青銅器生産にかかわった遺跡が多く、大掛かりな青銅器生産拠点がこのあたりにあったと考える考古学者もおられます。
また、下鈎遺跡からは水銀朱生産に用いたと推定される石杵も多数見つかっており、水銀朱生産も担当していたようです。
青銅器生産にかかわる品物
青銅器生産にかかわる品物
【栗東市教委】
弥生・古墳時代のいろいろなマツリの形を見ることができる
現代でもそうですが、弥生時代にもいろいろなマツリの形があったのは想像に難くありません。規模で言えば、クニのマツリから集落のマツリ、家族のマツリなどがあります。またマツリを行う動機や方法も様々です。
下鈎遺跡からは、いろいろな場面でのマツリと考えられる祭祀の施設や道具が多く見つかっています。
施設としては、祭殿や導水施設、道具で言えば、各種の玉製品、小銅鐸、手焙形土器などの特殊な品物があります。常用の土器でも、土器の置かれている環境や状況からマツリに用いられたことが判ることがあります。
下鈎遺跡では、他の拠点集落では出土例が少ないマツリの施設や道具が各種出土しています。
弥生時代中期に「導水施設」が見つかっているのは、特筆すべきでしょう。古墳時代の大掛かりな「導水施設」と同じ目的の施設なのか?という疑問もありますが、構造的にはほとんど同じで、水の祭祀という点でも一致しています。
いろいろなマツリの道具や施設
いろいろなマツリの道具や施設
【栗東市教委、滋賀県教委】
下鈎遺跡のあるところ

立地

下鈎遺跡は、栗東市の西寄り、草津市、守山市との境界に近い場所にあります。
野洲川は、長い歴史の中で流れを幾度も変え、大きな扇状地〜氾濫原〜三角州を形作ってきました。
栗東市は野洲川が作った扇状地の左岸にありますが、びわ湖には直接には面しておらず、下流側に守山市、草津市があります。
びわ湖に流れ込む多くの川のうち最も大きいのが野洲川で、栗東市はその下流域平野にあたります。
野洲川からは何本もの支流が流れており、その一つ「葉山川」が下鈎遺跡のすぐそばを流れていました。遺跡の性格を考えるとき、「びわ湖に流れ込む川が近くにあった」ことは重要な要素になります。
現在は遺跡の近くを東海道新幹線や東海道線、国道1号線が通っており、重要な交通ルートに面しています。
弥生時代から古代、中世にかけてびわ湖は交易や物資運搬の大動脈でした。びわ湖で運ばれた物資は川を介して内陸側に運ばれていました。古代には当時の交通幹線である「東山道」が下鈎遺跡のすぐそばを通っていました。
このように、下鈎遺跡周辺は交通・物資運搬ルートの要所になっていました。
下鈎遺跡の位置

野洲川下流域の弥生遺跡の一つ

野洲川下流域の左岸にある野洲市も含め、扇状地先端から氾濫原、三角州帯には、原始時代から古代の遺跡が数多く見つかっています。
びわ湖湖岸は初期稲作に適した場所であり、広大な面積があるので、稲作がどんどん広がっていきました。
弥生時代の遺跡に注目して見てみると、図のように「掘れば遺跡に行き当たる」ような土地柄です。
このうちの一つが下鈎遺跡です。
これらの遺跡の中には「クニ」を代表するような拠点集落や周辺集落の中核となる集落がいくつか見つかっており、下鈎遺跡はその一つとなります。
野洲川下流域の弥生遺跡分布
野洲川下流域の弥生遺跡分布
【滋賀県遺跡分布調査資料より】

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