古墳時代前期〜後期の様子
古墳時代初頭以降の遺跡は、広大な遺跡範囲の中で、散在的にしか見つかっておらず集落としての姿を描くことはできません。
しかし、古墳や祭祀域が見つかっており、断片的な様相を垣間見ることが出来ます。
しかし、古墳や祭祀域が見つかっており、断片的な様相を垣間見ることが出来ます。
古墳時代の集落構成
古墳時代前期〜中期にかけては、図よりさらに東側の広大な範囲も含めて、散在的に建物や溝や土坑が見つかるものの、集落としてまとまりは認められません。
古墳時代の集落構造
(滋賀県・栗東市発掘調査報告書より作成)
下鈎遺跡の南西に隣接する中沢遺跡では、古墳時代の大きな集落跡が見つかっています。
下鈎遺跡の古墳時代初頭に見られた居住域はなくなるので、人々は中沢遺跡に移ったように見えます。
東側の墓域には数基の古墳があり、また、南西側には、小さな居住域と祭祀域があります。
北側には、2つの川が合流する箇所に堰(せき)が、また、東側の川にも堰が設けられており、古墳時代になっても人々はこの地を利用していたようです。
古墳時代の墓域・祭祀域
古墳
弥生時代後期に流れていた大きな川は埋没し、川跡も含めて一帯に古墳が築かれました。
古墳・祭祀域 (滋賀県・栗東市発掘調査報告書より作成) |
円墳:西側より(図の左より) 円墳1:直径16m、溝幅3.5m 円墳2:直径13m、溝幅2.5m 方墳:大きいもので 一辺12m、溝幅1.5m程度 方墳:小さいもので 一辺7m程度、溝幅1m ここの方墳は平均的には、一辺10m程度 |
周溝の深さは10cmあるかないか、最も深いところでも30cmと浅く、墳丘本体は削り取られ平になっています。
この時代、服部遺跡でも円墳、方墳がありますが、下鈎遺跡の古墳は一回り小さい規模です。
服部遺跡の古墳も後世に削平されていますが、それでも周溝は50cm〜1.5mほど残されており、溝からいろいろな葬送儀礼の道具が出ていました。
墳墓祭祀
下鈎遺跡の古墳は周溝の残りが悪く、周溝に埋納された祭祀具は、墳丘の削平と共に排除されたと思われます。ただ、幸いなことに小さな玉製品は溝の底に紛れ込んで残されました。服部遺跡では、周溝から玉製品と共に大きなサイズの土器や木製農具が出てきています。また、これらの供献具を載せた台座なども出土するので、葬送儀礼の様子がうかがえます。下鈎遺跡の古墳でも農具や土器類も供献されたのでしょうが、後世に排除されたようで出土しませんでした。
【円墳1から出土した玉製品】
2基ある円墳の内、1基から滑石製の玉製品が出土しました。滑石製臼玉が140個、勾玉が2個、有孔円盤が1個
【方墳から出土した玉製品】
方墳の中で一番北側にあり、一番大きな方墳の周溝から玉製品が出土しました。方墳より出土した玉製品
左:紡錘車 上:管玉
中:棗玉 下臼玉
【滋賀県教委】
滑石製管玉 39点
長さ 9.7〜23.7mm、 直径 3.4〜5.7mm
長さのばらつきは大きいが、直径はほとんどが4〜5mmの範囲に入っておりばらつきは少ないです。
古墳時代の玉作工人が、ほぼ同じ直径の管玉を作ることに留意していたことが判ります。
表面も非常になめらかで丁寧な仕上げになっています。
滑石製臼玉(うすだま) 159点以上(破片は未計上)
厚み 1.0〜4.2mm、直径 2.3〜5.1mm(ほとんどが3.3〜4.2mm)
滑石製棗玉(なつめたま)11点
長さ 8.6〜12.4mm、 最大径 6〜7mm
臼玉、棗玉ともに、長さ(厚み)のばらつきは大きいが直径のばらつきは小さく、管玉と同じ傾向です。
ヒモに通して輪状にしたときに、同じ直径で揃えてきれいに見えるようにしていたようです。
長さ 9.7〜23.7mm、 直径 3.4〜5.7mm
長さのばらつきは大きいが、直径はほとんどが4〜5mmの範囲に入っておりばらつきは少ないです。
古墳時代の玉作工人が、ほぼ同じ直径の管玉を作ることに留意していたことが判ります。
表面も非常になめらかで丁寧な仕上げになっています。
滑石製臼玉(うすだま) 159点以上(破片は未計上)
厚み 1.0〜4.2mm、直径 2.3〜5.1mm(ほとんどが3.3〜4.2mm)
滑石製棗玉(なつめたま)11点
長さ 8.6〜12.4mm、 最大径 6〜7mm
臼玉、棗玉ともに、長さ(厚み)のばらつきは大きいが直径のばらつきは小さく、管玉と同じ傾向です。
ヒモに通して輪状にしたときに、同じ直径で揃えてきれいに見えるようにしていたようです。
【方墳からの出土状況】
方墳からの玉製品の出土状況ですが、周溝の一部の広い範囲に散らばっていました。ヒモに通したネックレス状のものを埋納したのではなく、バラケテ撒いたようです。祭祀のやり方がうかがえます。【溝から出土した埴輪】
方墳が並んでいる区域の南側、溝のあちらこちらから埴輪の破片が多数出土しています。埴輪の形を復元することはできませんが、多くは円筒埴輪で朝顔形埴輪の破片もあります。
この近辺に大きな古墳があったことが推察されます。
水辺の祭祀
円墳のある区域の川の傍と居住域のある区域の溝のそばで、水辺のマツリが行われ、土坑や溝に玉製品と土器が埋納されました。【墓域近くの水辺】
円墳の近くの川辺で水のマツリが行われ、土坑に滑石製玉製品と多数の土器が埋納されました。臼玉 140点以上、有孔円盤 9点、鏡型模造品 1点、管玉 1点
壺を中心とした多量の土器と共に埋納されました。
近くの円墳の周溝には土器は見つからなかったのですが、水辺祭祀の河跡からは土器が多数出てきました。周溝の深さと河跡の深さの違いが理由だと考えます。
【居住域近くの水辺】
「古墳・祭祀域」の図の左辺に示した居住域・祭祀域に、水辺のマツリの跡が見つかっています。水辺の祭祀(導水施設状遺構)
(栗東市発掘調査報告書より作成)
川(右図上部)と大きい溝(右図下部)を細い溝で結び、途中に土坑1があります。
下部の溝3は、古墳時代から後世にわたり何度も掘られた溝が重なっており、川のようになっています。溝3に削られた土坑2が、土坑1につながる溝2に接しています。土坑2は後世の溝3に削られたため細長くなっています。
土坑1 長さ3m、幅1.7m、深さ0.3m
土坑2 長さ3m、幅0.8m、深さ0.3m
これらの水路の構成を見ていると「導水施設」と同じ構造となっており、「導水施設状」遺構と呼んでおきます。導水施設状遺構の傍に掘立柱建物が1棟建っています。弥生中期の導水施設でも、住居とは考えにくい掘立柱建物が傍に建っており、祭祀関連の建物と考えました。これとよく似ています。
この遺構の、土坑1、土坑2および溝3から須恵器、土師器などと共に滑石製玉製品が多数出土しました。この区域で出土した滑石製玉製品は合計で150点(さらに増える可能性あり)です。
玉製品の内訳は;
子持勾玉1点、勾玉8点、有孔円板17点、管玉4点、剣形1点、臼玉116点、臼玉未成品2点
子持勾玉は土坑1から見つかりましたがその他は、多くが溝3から出ています。
大きな子持勾玉が見つかった土坑1からは焼土と炭が認められ、祭祀に使ったものと考えられます。溝と土坑の使い分けも含め、水辺のマツリのやり方の一端が伺われます。
導水施設状遺構からの出土玉製品
【栗東市教委】
【水辺の祭祀の想像図】
水辺(土坑)の祭祀想像図
(イラスト:雨森朋美)
古墳時代の建物・構造物
居住域
古墳時代の建物跡は、下鈎遺跡の発掘範囲で示した広大な区域のあちらこちらから、掘立柱建物跡や竪穴建物跡が、1棟、2棟と散在的に見つかっていますが、まとまった居住域は見つかっていません。ただ、水辺のマツリで紹介した祭祀域の近くに数棟の掘立柱建物がまとまって出土しており、この辺りに居住域が広がっていたことを伺わせます。
集落構成の説明で、「人々は中沢遺跡に移ったように見えます」と書きましたが、図に示した区域は、中沢遺跡に隣接する場所であり、ここが中沢遺跡の北のはずれであった、とも考えられます。
古墳時代の居住域
(栗東市発掘調査報告書より作成)
堰(せき)
「古墳時代の集落構成」の地図で示したように、北端と東端の川の中に堰(せき:水の流れを制御する施設)が見つかっています。北側の堰は川が2つに分流する地点で、東側の堰は川が大きく湾曲する肩口に設置しており、水の流れの制御や分流を目的としています。東側の堰は、2つの堰が方向を変えて設置してあり、水の流れを細かくコントロールしようとしていたようです。
おそらくこの辺りには水田が広がっていて、灌漑用水の制御をしていたと思われます。
北の堰 (栗東市発掘調査報告書より作成) |
東の堰 (滋賀県発掘調査報告書より作成) |
特別な出土品
祭祀域から出土した玉製品を紹介しましたが、その中で特別な子持勾玉や祭祀場から少し離れたところから見つかっている、前漢鏡、ガラス玉について紹介します。子持勾玉
子持勾玉は土坑1から見つかった、文字通り子供の勾玉を抱えている巨大な滑石製勾玉です。背中に3個の子供勾玉を、お腹に1個、両脇に2個ずつ抱えています。長さは9.5cmととても大きく、幅も子供も入れて4.2cmです。子持勾玉は滋賀県で13例目ですが、完全な形の優れた品です。
これまでの出土例では、子持勾玉は有力豪族の祭祀に用いられており、下鈎遺跡に有力な豪族がいた証拠となります。
子持勾玉 |
前漢鏡 |
ガラス玉 |
前漢鏡
「水辺のマツリ」のところで、古墳時代から平安時代の溝が重なり合っている幅11mを超す「溝3」に触れましたが、この溝の南端から前漢鏡の破片が出ました。この鏡は紀元前1世紀に前漢で鋳造された「異体字銘帯鏡(いたいじめいたいきょう)」と呼ばれるものです。復元した大きさは直径8cmの小さな鏡ですが、国内では弥生時代中期後半に北部九州の王墓に副葬品として納められていました。近畿地方では数例の小破片が確認されているだけの貴重な品で、滋賀県では初めて、滋賀県最古の鏡です。
下鈎遺跡では、弥生時代後期の首長が祭祀に用いていたものが、古墳時代まで受け継がれ、最後に溝3に埋納されたと思われます。
ガラス玉
方墳7基が見つかった近辺の小さな土坑、直径約20cm、深さ10cmの穴よりガラス玉が1個出てきました。土器などを伴っていないので時代判定は難しいのですが、古墳のある場所なので、ここで紹介します。古墳からは少し離れており、小さくて浅い穴にガラス玉を1個収める・・・墳墓祭祀とも土坑祭祀とは考えにくい状況です。でも貴重なガラス玉です。隠していたのでしょうか?下鈎遺跡を継ぐのは?
弥生時代後期、伊勢遺跡、下鈎遺跡が栄えていました。後期末近くに下長遺跡が伊勢遺跡群の一つとしてとして現れてきます。下長遺跡はびわ湖水運、陸路との接続拠点として機能します。これら3つの遺跡が併存して栄えた期間はそれほど長くはなく、後期末には伊勢遺跡、下鈎遺跡の祭殿が廃絶し、両遺跡は居住域となっていきます。一方、下長遺跡は卑弥呼政権との強い結びつきを持ち、古墳時代早期も水運・交易拠点として栄えます。
下鈎遺跡も水運と陸運の接続拠点として栄えていたと考えられており、時系列的に考えると、水陸接続拠点の機能が下長遺跡に受け継がれていくように見えます。 居住域となった下鈎遺跡も長続きはせず隣接する中沢遺跡に移っていきます。 古墳時代初頭から前期になるころ、伊勢遺跡、下鈎遺跡は人々が住まなくなりますが、その頃、入れ替わるかのように、東へ2〜3kmのところに新しい集落が生まれます。辻遺跡、岩畑遺跡、高野遺跡です。 下長遺跡と併存しますが、前期中頃には下長遺跡の集落は縮小していきます。 一方、その時期の辻遺跡、岩畑遺跡、高野遺跡は急速に拡大し、数100棟の竪穴住居が立ち並ぶ大集落になります。 下長遺跡の人たちが移り住んだような格好です。 |
古墳時代に現れる大集落 |