集落構成
縄文時代を通じて人の痕跡のあった下鈎遺跡は、晩期から弥生時代に移るころに途絶えます。これは稲作と関係しており弥生初期には米作りの容易なびわ湖岸近くに集落が移ります。
弥生時代中期後半になると、ここに環濠集落が生まれます。
弥生時代中期後半になると、ここに環濠集落が生まれます。
環濠集落の中を大きな川が流れる
弥生時代中期には、野洲川下流域に複数の環濠集落が栄えており、その一つが下鈎遺跡です。下鈎遺跡では、環濠の中(すなわち集落の中)を幅が40mほどもある大きな川が2本と、複数の溝が流れていました。
川を環濠の一部として利用する環濠集落はよくありますが、集落の真ん中を大きな川が流れるのは珍しいことです。
「地形」のところでも述べたように、葉山川流域は扇状地の形成が弱く、比較的低地になっていたため川がこの辺りを流れていたのでしょう。
ここに環濠集落を造営した人たちは、川の存在は承知の上で、むしろ川を利用していたとみるべきです。
環濠の北西部には、弥生時代後期に栄える集落が、環濠と一部重複して見つかっています。
環濠集落の東側には、発掘調査の前から工業団地が建設されており、環濠集落の東側1/4位は発掘されていません。
また、遺跡の北西側から南東方向へJR草津線が通っており、ここも発掘が出来ません。
広範囲に発掘調査が行われたのは、環濠の中央を北東から南西へ流れている中ノ井川放水路の改修工事の部分となります。
中期集落の範囲
(出典:栗東市発掘調査報告書)
集落構成
発掘できた面積は少ないのですが、環濠内を目的別に利用していたようです。発掘して判明した集落構造は、図の通りで、環濠内の北東から南西にかけての約20%くらいの範囲です。環濠内には、居住域と祭祀域があり、環濠の外に墓域があります。
下鈎遺跡の特徴のところで述べましたが、弥生時代の地層と古墳時代の地層はほぼ同一面です。
そのため後世に古墳が築造された場所は、弥生時代の地層が掘削・削平されています。
図の中で、北部の灰色で塗りつぶした区域は、微高地にあたり、居住域として期待されたのですが、古墳跡が出土し、弥生時代の遺構はほとんど見つかりませんでした。
環濠外に一部墓域が存在しますが、その他の環濠外部には弥生中期の遺構はほぼ見当たりません。
中期集落の構成
(栗東市発掘調査報告書作成より)