集落構成
弥生時代中期末に、近畿地方の環濠集落が一斉に衰退します。下鈎遺跡をはじめとして野洲川下流域の環濠集落も解体してしまいました。
弥生時代後期に入ってしばらくすると伊勢遺跡が突如として現れます。
それからしばらくして、伊勢遺跡の近くに下鈎遺跡が出現します。
弥生時代後期に入ってしばらくすると伊勢遺跡が突如として現れます。
それからしばらくして、伊勢遺跡の近くに下鈎遺跡が出現します。
集落の中を川筋が複雑に流れる
弥生時代中期の集落が無くなって100数十年後、中期集落の北西部に弥生後期の集落が突如出現します。集落の中は川が複雑に流れており、中期の集落と同じように、川を基軸として活動がなされていたようです。
後期集落の範囲
(栗東市発掘調査報告書より作成)
北西側はJR東海道線で区切られ、北東側は幹線道路に区切られており、遺跡範囲はその南側とされていますが、当時の集落は北側にもっと広がっていたと考えられます。
南西側には、遺跡発掘以前に開発された団地がありますが、集落はここまでは広がっていなかったようです。
集落構成
集落範囲の北側と南側に祭祀域が広がり、間に居住域が存在しています。遺構の中央部はかなり広い面積が発掘されたのですが、後世の削平がおおきく、弥生時代の遺構は見つかりませんでした。墓域も、まとまった墓のある区域はなく、範囲外に存在していたと思われます。
後期集落の構造
(栗東市発掘調査報告書より作成)
ここでは弥生時代後期後半から古墳時代早期の間に、集落が最も栄えた時代の様子を述べていますが、弥生時代後期末に大きな変動があり、集落の様相ががらりと変わってしまいます。
図の北部区域が「祭祀域」と「居住域」と併記していますが、弥生時代後期には「祭祀域」であったものが、古墳時代早期には「居住域」に代わってしまうのです。その頃には、南側の祭祀域も同時に消滅してしまったと考えられます。
以降、必要に応じて「弥生時代後期」と「古墳時代早期」と峻別して記述します。
居住区ですが、このホームページシリーズで紹介している、下之郷遺跡、服部遺跡および下長遺跡と比べて、見つかる住まい跡がとても少なくなっています。
一方、祭祀域周辺で住居跡が見つからないことは伊勢遺跡と似通っています。これらのことは、伊勢遺跡の消長と密に関係しており、節を改めて紹介します。