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下鈎遺跡はどんな遺跡
遺跡の発見と広がり
1980年初めころより、栗東市のいろいろな場所で遺跡の発掘調査が行われるようになりました。
1982年、マンション開発の事前調査で栗東町下鈎に弥生時代の遺構や土器、平安時代の土器や陶器片が見つかり、「下鈎遺跡」と命名されました。
栗東市が遺跡範囲として定めた地域割りの内、主要な遺跡を図に示します。
下鈎遺跡の発掘調査は当時の栗東町教育委員会で行われましたが、遺跡の中央を流れる人工流路「中ノ井川放水路」の改修工事に伴う遺跡発掘調査は、平成9年から6年かけて滋賀県が主体となって進められました。(図中、伊勢遺跡は守山市との間にまたがっています)
弥生遺跡の分布
栗東市の主要な弥生遺跡の分布
【出典:栗東市発掘調査報告書】

「中ノ井川放水路」の改修工事に伴う遺跡発掘面積は約20千uの広さで、6年という比較的短期間で発掘調査されましたが、その他の区域は住宅地開発や公共事業、工場建設などに伴い、30数年間にわたって少しずつ調査されました。
下鈎遺跡として範囲指定されている広さは、東西が約1300m、南北が約670mで広さは87万uと広大な広さになります。
ただ、下鈎遺跡が繁栄しているときの広さは、弥生時代中期で12万u、後期では、中心的な遺構は10万u程度です。その周辺にも散単発的に遺構が見つかることがありますが遺跡の広さとしては上の数値には入っていません。
下鈎遺跡の範囲で、実際に調査された箇所を地図に示します。
赤色の部分が遺跡調査の対象です。表面調査やトレンチ(ほそながい溝)を切って一部の調査で終わることもあり、掘り上げて発掘した範囲ではありません。

弥生遺跡の分布

下鈎遺跡の発掘地点 (滋賀県、栗東市発掘調査報告書より作成)
下鈎遺跡の地形
下鈎遺跡が栄えるのは弥生時代中期後半と弥生時代後期後半から古墳時代初頭の時代ですが、弥生後期には1.2km離れた伊勢遺跡とともに、当時の「クニ」の中核として最も栄えます。
ここに湖南地域の中核となる遺跡が生まれ、下鈎遺跡が「青銅器生産+祭祀空間」として栄えるのは、びわ湖の存在とこの近辺の地形にあると考えています。

野洲川下流域の地形

ここで野洲川下流域の地形を眺めてみます。
野洲川下流域で弥生遺跡がある場所は米作りと密接に関係しています。初期の米作りはびわ湖岸の三角州で始まり、米作りの技術が少し上がると内陸側の氾濫原に広がっていきます。さらに弥生時代後期になると、拠点集落はより内陸側の乾燥した扇状地にも移っていきます。
図には示していませんが、古代の交通幹線「東山道」は地形をうまく利用して、扇状地の先端部分を通っています。弥生時代にも東山道の先駆けとなる「プレ東山道」が通っていたはず、びわ湖水運と川を介してつながる重要な位置に下鈎遺跡が営まれていました。
拠点集落 平野モデル 野洲川下流域の拠点集落(左)と地形(右)

下鈎遺跡周辺の地形から推定される下鈎遺跡の機能

もう少し下鈎遺跡周辺の地形を細かく見てみます。扇状地と言っても一様な高度ではなく、微高地や低地などの起伏があります。
下鈎遺跡は葉山川の近くに営まれています。葉山川は、下鈎遺跡の北側にある野洲川本流と旧境川が形成する扇状地と、南側にある草津川が形成する扇状地の間の低地を流れていて、葉山川自体は顕著な扇状地を作っていません。2つの扇状地の間の低地を流れ下る排水河川と見られます。
拠点集落
下鈎遺跡周辺の地形
【出典:下鈎遺跡と小銅鐸 滋賀県文化財保護協会 辻川哲朗】

また、通常は扇状地先端から氾濫原に移る場所で噴出する伏流水が、下鈎遺跡あたりから流れ始めています。このため下鈎遺跡の範囲を何本もの川が流れていたようです。「比較的低地で、川が複数流れている」ことが、下鈎遺跡の役割を知るヒントとなりそうです。
このことに関して滋賀県として下鈎遺跡の発掘を担当された滋賀県文化財保護協会の辻川哲朗さんは「扇状地の先端は、川を舟で遡上出来る限界ラインである」と指摘されています。
びわ湖から川を上ってきた舟は、この辺りで陸路や小型船舶に荷物や人を積替える必要があるという考えです。
すなわち、遡上限界ライン近くの大きな川が流れている場所は、物流の中継に最適であり、下鈎遺跡が 物流の中継地点として機能していたのではないか、と示唆されています。
この考えに従えば、大きな川が流れている場所に環濠集落を造営した理由が読めてきます。
周辺遺跡とのかかわり
下鈎遺跡の詳しい内容は後述しますが、縄文時代から中世までの遺構が見つかる場所です。下鈎遺跡が特に栄えるのは弥生時代中期後半と後期後半になります。
下鈎遺跡が単体で栄えたのではなく周辺遺跡と密に関わりあっていました。この時代の周辺遺跡の分布および拠点集落の分布を見てみます。
弥生時代中期、後期、下鈎遺跡周辺にいくつかの集落の存在が認められます。隣接する拠点集落(伊勢遺跡、下長遺跡)以外は下鈎遺跡を中核とする衛星集落と考えていいでしょう。
下鈎遺跡の役割や位置づけを考えるには、「下鈎遺跡の地形」のところに図示した拠点集落との関係並びに時代的な重なりを見る必要があります。
周辺遺跡分布
下鈎遺跡と周辺遺跡分布(弥生時代)
【出典:栗東市発掘調査報告書】

時代区分と拠点集落

野洲川下流域の弥生遺跡を調べるにあたり、時代と年代の対応や呼び方を決めておく必要があります。新しい科学的年代測定法が導入され、時代区分と実年代の関係が前倒しになってきています。
当NPOは、考古学の専門家に指導を仰ぎ、自分たちの時代感で遺跡の関係を考察しています。
また、時代の呼称も考古学者によって微妙に違っています。これも我々なりに時代の呼称を定め統一して用いています。
「野洲川下流域の地形」のところで図示した拠点集落の存続した期間を図に示します。
周辺遺跡の年代
下鈎遺跡と周辺遺跡の年代(図:田口一宏)

時代区分と呼び方

弥生中期の拠点集落

下鈎遺跡が栄える弥生時代中期の拠点集落を見てみます。下鈎遺跡から約7km北方の野洲川河口近くに服部遺跡が栄えていました。また、約4km北に大きな多重環濠の下之郷遺跡が栄えていました。下之郷遺跡は弥生時代中期末まで待たずに衰退し、その隣に大きな環濠集落、ニノ畦・横枕遺跡が生まれます。
服部遺跡には広大な面積に360基以上の方形周溝墓が築かれました。破壊された墓も考え合わすと、500基以上もの墓があったと推定されます。近辺に大きな集落があったと考えられますが、発掘調査の範囲内では集落の一部しか見つかっていません。
また、下鈎遺跡の北方4kmあたりに、内周環濠、外周環濠からなる大きな環濠集落「下之郷遺跡」がありました。内周環濠は3重〜6重から成り立っており、環濠集落内部の様子から考えても、下之郷遺跡は、拠点集落ネットワークの中でより上位の集落として機能し、下鈎遺跡は拠点集落ネットワークの構成集落と考えます。
弥生時代中期の服部遺跡、下之郷遺跡と下鈎遺跡の具体的な関係がどうであったのか知る由もありませんが、共通しているのは、この時代にこれらの遺跡から青銅器製品の鋳型が見つかっていることです。鋳型が出土することはまれであり、何らかのつながりがあったに違いありません。

弥生後期の拠点集落

弥生時代後期初め、近畿地方では大きな集落はなくなりますが、近江には突如として伊勢遺跡が出現します。伊勢遺跡は、何もなかったところに祭祀空間として何棟もの大型建物や祭殿(独立棟持柱建物)が建造されます。少し遅れて、すぐ近くに下鈎遺跡が続いて造営されることになります。ここから、伊勢遺跡と同じような祭殿が複数棟見つかっています。また青銅製品が多く見つかっていることから、青銅器生産を担っていた可能性も考えられます。
その後数10年経過した弥生時代後期末に、これもすぐ近くに下長遺跡が造営されます。ここにも同じような大きさと構造の独立棟持柱建物が建てられます。立地は扇状地から少しびわ湖側に下がった氾濫原です。出土品や遺構などから、ここはびわ湖水運と交易の拠点であったと考えられています。
すなわち、伊勢遺跡と下鈎遺跡、下長遺跡はそれぞれが、祭祀、工業、商業を分担して機能した「伊勢・下鈎・下長遺跡群」(長くなるので、今後は「伊勢遺跡群」と記す)を構成していました。
伊勢遺跡と下鈎遺跡は弥生後期末で衰退しますが、下長遺跡は古墳時代になってからも、ヤマト王権とつながりを持ち一層栄えていきます。
弥生後期にも服部遺跡は栄え大きな集落を構成していました。ここには大型建物はなくほとんどが竪穴住居です。しかし、銅製品の鋳型が出土しており青銅器生産を行っていた可能性があります。この点を考慮すると、弥生後期にも下鈎遺跡とつながりを持っていたと考えられます。
弥生後期末で伊勢遺跡・下鈎遺跡の2つの遺跡が衰退するとき、大岩山に銅鐸が埋納されます。

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