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伊勢・下鈎遺跡群
弥生時代中期末に起きた南海巨大地震で近畿地方の弥生社会は壊滅したと考えています。
弥生時代後期になって、建設されたのが伊勢遺跡であり、下鈎遺跡でした。2つの遺跡は異なる役割を担い、原倭国(近畿政権)の中核となっていたと考えています。
伊勢遺跡
下鈎遺跡の性格を考える上で必要となる、伊勢遺跡の概要を述べます。

伊勢遺跡はこんな遺跡

伊勢遺跡は、滋賀県守山市伊勢町から阿村町にかけて発見された弥生時代後期の約30ヘクタールに及ぶ大規模な遺跡で、弥生後期としては国内最大級です。 弥生後期、近畿地方では、中期の巨大環濠集落が解体して、小さな集落に分散するなかで、伊勢遺跡のように巨大化する遺跡は稀です。
さまざまな形式の大型建物が計13棟も発見されており、それらが円と方形の組み合わせで計画的に配置されています。 直径220mのほぼ円周上に等間隔に配列された祭殿群、中心部には方形に配列された大型建物がならび、柵によって囲われています。そばには楼観が建っています。
大型建物がこれだけ集中して見つかる遺跡は他にはありません。
建物の型式・配列から見て、巨大な祭祀空間が存在していたと考えられています。
【円周上に配列された多数の建物】
方形区画や楼観を中心にして、半径110mほどの円周上に独立棟持柱大型建物が7棟発見されています。計画的に円周配列したことが判ります。
これらの独立棟持柱建物は、床面積は約40uでほぼ等間隔に建っており、伊勢遺跡の存続期間のなかで、計画的に円周上に建設されていったと推測できます。
このように、円周上に配置された建物群は、他に例がなく、この遺跡だけの特殊な遺構といえます。

伊勢遺跡の建物(復元想像図)
伊勢遺跡の建物(復元想像図)
(CG制作:MKデザイン 小谷正澄)
伊勢遺跡の建物配列
伊勢遺跡の建物配列
出典:守山市史(考古編)
【柵で囲われた方形区画】
遺跡中心部には、二重の柵の内側に大型建物が整然とL字型に配列された方形区画と呼ぶ特殊な空間が存在します。床面積86uのとりわけ大きな高床式建物を中心に、3棟の棟持柱をもつ建物が西側に配列されています。
それに隣接して総柱式で、一辺9mの正方形の大型建物が検出されていますが、佐賀県吉野ヶ里遺跡で発見されているような楼閣のような施設と見らます。
巨大な集落遺跡の中心部に、柵で方形に区画された中に大型建物を整然と配置していることがわかる遺跡であり、全国的にみても殆ど類例を見ません。
【国史跡に指定】
このような大規模な遺跡であるにも関わらず、大勢の人たちが日常的に生活していたような痕跡が見当たりません。大型建物群や周辺の溝からは生活遺物が出てこないのです。その当時の墓地も見つかっていません。このような事実からも、この場所が特殊な位置づけの遺跡であることが推定されます。
ここは祭祀空間であり神聖な場所であったとしたら、日常用品やごみなど出てこないでしょう。
中央部の建物群は、魏志倭人伝に【宮室楼観城柵厳設】と書かれている「卑弥呼の居処」と似た構成となっています。
このような建物群からなる遺跡は、卑弥呼が倭国王となる前段階を知る上で、全国的に見ても非常に貴重であることから、平成24年1月に国史跡に指定されました。

歴史的意義−−初期ヤマト政権の成立に働いた遺跡

弥生時代に栄えた大規模集落には、九州の吉野ヶ里遺跡や、近畿の池上曽根遺跡、唐古鍵遺跡などがあります。これらの遺跡は、弥生時代の長い期間、同じ場所に継続して生活が営まれます。
これに対し、伊勢遺跡は弥生時代後期半ばに、何もない扇状地に突然現れて巨大化し、後期末にはその使命を終えます。それは、紀元1世紀後半から2世紀末と考えられ、祭祀空間として栄えるのは 100年程度の短い間です。
伊勢遺跡が出現する前、弥生時代中期末、紀元1世紀の始まりのころ、巨大な南海地震が発生し、近畿地方の弥生集落は壊滅したとする考え方があります。
また、伊勢遺跡が出現する紀元1世紀中ごろの日本列島には百余のクニがあった時期です。倭国大乱があって国が乱れます。西日本から中部地方にかけて、いくつかの有力な地域政治勢力が競合していました。
このような社会が大きく動揺していた時期に、突如出現する伊勢遺跡は、より大きな政治組織を必要とした各地のクニが共同で生み出したものと考えられます。
また、伊勢遺跡の衰退期は、『魏志倭人伝』に記されたように、30余国が属する邪馬台国を都とする倭国の形成期、という歴史的な転換点にあたります。それは、卑弥呼が擁立され倭国大乱が収束した時期です。
約100年の歴史をもって伊勢遺跡は衰退しますが、衰退はこのような歴史的な転換とも何らかの関わりがあったことは想像に難くありません。
卑弥呼擁立をもって伊勢遺跡の役目は終わり、祭祀を通じた政治システムは、卑弥呼に引き継がれた、と考えることもできます。
すなわち、伊勢遺跡の歴史的な役目は、初期ヤマト政権の成立に先立ち、地域の政治的統合や安定に関わるものであったと考えます。
伊勢・下鈎遺跡群

下鈎遺跡建造の目的

伊勢遺跡の建物群は数10年かけて次々と建造されていきましたが、1.2Km南側には少し遅れて下鈎遺跡が建造されます。おそらく2つの遺跡は並行的に建造されていたのでしょう。
両遺跡には共通する独立棟持柱建物の祭殿が存在します。下鈎遺跡でも祭祀が行われていたと考えていいでしょう。伊勢遺跡の祭祀域には一般住居が見当たりませんが、下鈎遺跡でも同じことが言えます。
ただ、下鈎遺跡の祭殿周辺では祭祀行為の痕跡が濃密に認められ、この点が伊勢遺跡とは違っています。また、下鈎遺跡は青銅器生産と水銀朱生産の拠点であった可能性が指摘されています。
では、2つの遺跡はどのような祭祀を行っていたのでしょうか。祭祀の性格や目的に違いがあったと考えます。伊勢遺跡では、倭国形成にかかわる神聖なマツリが行われ、下鈎遺跡では身近で実務的なマツリを行っていたと思われます。
さらに、弥生時代中期に下鈎遺跡が果たしていた「河川水運と陸路運輸の物流中継拠点」という役割を後期になっても引き継いでいるのではないでしょうか。この役割は地形に起因するものであり、再びこの地に物流中継拠点を再建しても不思議ではありません。
川のすぐそばに祭殿が建てられていることからもうなずけることですし、「伊勢遺跡に近い位置」であることも納得がいきます。「川のそばの祭殿」については下長遺跡と同じ状況であり後で述べます。 すなわち、伊勢・下鈎遺跡群として計画的に建造され、原倭国の中核を成していた集落ということになります。
弥生時代後期末近く、下鈎遺跡の建造からだいぶ遅れて下長遺跡が伊勢遺跡の西側近くに建造されます。下長遺跡は、びわ湖・河川水運の中枢、陸路との中継拠点であったと考えられています。
ここにも伊勢遺跡、下鈎遺跡同様に同じような独立棟持柱建物の祭殿が建てられます。この祭殿は川のすぐそばに建てられており、川を通る舟に威容を示し、安全を願う祭祀を行っていたのでしょう。
弥生時代後期末近く、下鈎遺跡の水運機能に何らかの障害が生じたのか、下鈎遺跡の役割を下長遺跡が引き継いだような形です。
後期末には、下長遺跡も含めた3つの遺跡が「伊勢遺跡群」を形作っていました。

弥生後期末に生じたこと

伊勢遺跡の歴史的役割のところに書きましたが、卑弥呼共立をもって伊勢遺跡群の役割を終え、纏向に新倭国が成立します。
この時、伊勢遺跡では祭殿群が廃止され、祭殿は柱が引き抜かれたものもありました。
その跡地に、それまでに1棟も見られなかった竪穴住居、それも大型のものが次々と建てられます。
言ってみれば新興住宅街の誕生です。
下鈎遺跡も同じことが生じていました。詳細は後述します。

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