ヘッダー画像
青銅器生産
下鈎遺跡では、銅鏃が数多く出土していること、未成品の銅鏃が見つかっていること、青銅製品の鋳型、鋳造の際に付随的に出てくる銅残渣(銅のカス)や銅湯玉なども出土 していることなどを考え合わせると、この地で青銅器を生産していたようです。
青銅器関連出土物
製品も含めた青銅器製品の出土地点の地図を示します。弥生時代中期のものも含んでいます。
銅関連製品の出土場所
銅関連製品の出土場所
(栗東市発掘調査報告書より作成)

銅製品

弥生時代中期の遺構で出土した銅製品は、銅釧、小銅鐸、銅鏃未成品があります。これらは「弥生時代中期の出土品」のところで説明しているので省きます。
ここでは、弥生時代後期の遺構で出土した銅製品について説明します。
【銅鏃】
弥生時代中期の未成品銅鏃も含め、合計で22個の銅鏃が出土しています。その中には、多孔銅鏃という形も美しく大きな銅鏃もあります。多孔銅鏃は東海地方を中心に分布する銅鏃で、滋賀県内でも少数見つかっています。
全国的に見てもこれだけの銅鏃が出土する遺跡は少なく、下鈎遺跡の特異性を示しています。
出土した銅製品
【栗東市教委】
【銅環】
外形の直径が約13cmの大きな環状の青銅製品が出ています。大きな銅釧とも考えられましたが、弥生中期に出土した銅釧と比べると圧倒的な違いがあり、腕輪として用いられた銅釧とは別の品物と考えられています。
【前漢鏡】
中国の前漢時代の鏡の破片(長さ2.7cm、幅1.3cm)が出土しています。滋賀県では初めてで、県内最古の鏡です。
この鏡は紀元前1世紀に前漢で鋳造された鏡で、異体字銘帯鏡とも呼ばれます。復元すると直径8cmの小さな鏡ですが、国内では主に弥生時代中期後半に北部九州の王墓に副葬品として納められたものです。
近畿では数例の小破片が確認されているだけの貴重なものです。
この鏡片は古墳時代〜平安時代の溝が複雑に絡み合う地層から出てきましたが、弥生時代後期にこの地に伝わり祭祀用に代々引き継がれたものだと考えられています。

青銅器生産に関わる遺物

【鋳型】
出土した土製鋳型は大きさ11.5cm×10.4cm、厚さ約2cmで、大きな鋳型の破片です。一見、軒平瓦のようなカーブを持っており、内面には斜格子を刻んでいます。底面が面取りされていることから、銅鐸の裾にあたる部分の外枠鋳型の可能性があると見られています。
【銅残渣、銅塊、銅湯玉】
下鈎遺跡では、青銅製品だけではなく、鋳造するときに発生する銅残渣(ざんさ:銅のカス)や銅湯玉、銅塊などが出土しています。銅残渣は、銅を溶解して使う時にでる発泡性の銅カスで、銅湯玉とは高温で解けた銅が沸騰して飛び散る小さな粒が固まったものです。銅塊は解けた銅が滴り落ちるときに生じたしずくが固まったものです。
これらは鋳造(ちゅうぞう)現場で発生するもので、下鈎遺跡のこの近くで青銅製品の鋳造が行われていた可能性が高いと言えます。
土製鋳型 土製鋳型の形状  銅残渣 銅湯玉、銅塊
土製鋳型       土製鋳型の形状           銅残渣         銅湯玉、銅塊
【栗東市教委、 銅湯玉、銅塊は安土城考古博撮影】
【竪穴建物から出た銅残渣】
銅残渣や銅塊、銅湯玉は川や溝から出土しています。青銅器を生産した後、廃棄したのかあるいは後始末のマツリごとをしたのか、生産現場(工房)ではない所から出てきます。
ただ、北の祭祀域にある大型の竪穴建物の床の地層から、銅残渣が出ています。後期の下鈎遺跡では竪穴建物はこれしかなく、特別な目的をもって建てられた建物と考えられます。しかし、ここでは工房としての施設などは見つかっていません。
今のところ、生産工房が見つかっておらす、残念ながら、ここで鋳造していたという決定的な証拠にはなっていません。しかし、遺物からみると、この近辺に青銅器生産工房があった可能性は極めて高いと言えます。
【不明土製品】
高温にさらされた土製品が数点見つかっています。形から用途はわからず、特異な品物なので不明土製品として記録に残されています。
安土城考古博物館で催された「青銅の鐸と武器」(平成29年秋季特別展)では、非常に高い温度にさらされた痕跡から推定して、送風管や土製鋳型としての可能性が示唆されています。
これが事実であれば、ここで青銅器が生産されていたことは、確実と言えるでしょう。
不明土製品
不明土製品
【栗東市教委所有、安土城考古博撮影】

mae top tugi