弥生時代後期後半の建物
ここでは、原倭国の中核としての伊勢・下鈎遺跡群の終焉に関わる事項なので、弥生時代後期と弥生時代末〜古墳時代初期の2期に分けて述べます。
建物の位置
この時期に建物が存在していた場所を図に示します。
弥生時代後期の建物
(栗東市発掘調査報告書より作成)
祭祀域は南北の2区画に分かれています。北部と南部の祭祀域に祭殿と付属する掘立柱建物があり、中央部の居住域に住まいが立ち並んでいます。
南側の祭祀域には祭殿2棟と東端に大きな掘立柱建物(建物3)があります。この建物は、祭殿とセットで機能していた建物ではないかと考えられています。 北部の祭祀区には祭殿(建物4)と小さいながら独立棟持柱建物(建物5)があり、祭祀に関わる建物と見られています。この近くに、竪穴建物が1棟だけ見つかりました。「青銅器生産」のところで触れた、青銅器生産に関わる可能性のある建物です。 居住区の周溝付建物の内、1棟は内部に掘立柱建物が見つかっていますが、他の4棟は発掘範囲外ため、建物の様子は分かりません。 その他は、掘立柱建物で、ほとんどが中小型の建物です。 |
後期の集落想像図 (絵:雨森智美) |
建物の詳細
大型祭殿
伊勢遺跡と同じような大きさと太い柱を使い、似た型式の建物は、祭殿と推定されています。伊勢遺跡と同じように独立棟持柱を持つのが特徴ですが、伊勢遺跡の祭殿で見られた心柱は見当たりません。ここに、伊勢遺跡の祭殿との違いがあり、祭祀の違いにつながるのではないかと考えます。
建物1 (祭殿1) | 建物2 (祭殿2) | 建物4 (祭殿3) | (参考) 伊勢遺跡 | |
柱構造 | 2間×5間 | 2間×4間 | ?間×5間 | 1間×5間 |
建物面積 | 50u | 40u | ? | 40〜45u |
大きさ | 5.4m×8.8m | 5.1m×7.6m | ?×10.5m | |
独立棟持柱 | あり | あり | ? | あり |
心柱 | なし | なし | ? | あり |
残留柱根 | あり | なし | なし | あり/なし |
その他 | 布堀構築 | テラス付き | 布掘構築 | 6棟の祭殿 |
【建物1(祭殿1)】
建物は、まず布掘りと呼ばれる細長い溝を掘ってその後柱穴を掘る構築方法がとられています。伊勢遺跡では見られなかった構築方法ですが、後に伊勢・下鈎遺跡群に加わる下長遺跡では、一部にこの方法が採用されています。大型建物を同時並行して建造するには大勢の工人グループが要ったはずで、工人のグループによって建築方法が違ったのでしょう。
建物1 柱穴 |
建物1 布掘りの溝 【栗東市教委】 |
掘り出された柱根【栗東市教委】 |
建物1復元想像図(栗東市教育委員会) |
布掘りの穴には柱を立てる際に落とし込みやすくするために設けた傾斜面(斜路)を設けています。長くて太い柱を立てるための工夫で、この建物が大きかった証拠でもあります。太くて長い柱を斜めに挿入して立てる方法は伊勢遺跡と同じです。
南面の中央の柱間隔が長くなっており、ここに扉があったと考えられます。
伊勢遺跡の祭殿との大きな違いは「心柱」がないことです。
祭殿自体が持つ「祭祀場」の意味の他に「心柱」が表す「神聖性」のようなものが考えられますが、伊勢遺跡にはあって、下鈎遺跡にはない、何か意味があると考えます。
柱穴には9本のヒノキ材の柱根が残されており、残りの良いものは直径が約37cmでした。その内の1本は年輪年代法により、西暦69年の年代と判定されました。
【建物2(祭殿2)】
地面に直接柱穴を掘って柱を入れ込む方法で建てられています。柱根は残されていませんでしたが、柱穴は80cmから1.2mの楕円形で、太くて長い柱を立てるための斜路が設けてあります。柱穴から推定すると、側柱が40〜45cmと太い柱で、棟持柱は30〜35cmと考えられます。 建物横の柱穴の配置から推定するとテラスがあったようです。伊勢遺跡でも1棟の祭殿にテラスが設けてあり、関連性が伺われます。
しかし、建物1と同様、心柱は見当たりません。
建物2の柱穴 (栗東市発掘調査報告書より作成) |
建物2 復元想像図【栗東市教委】 |
【建物4(祭殿3)】
遺構の北部にある建物跡で、後世の川によって片側の柱穴列が壊されて残っていません。 柱穴から推測できる柱の太さは約25cm〜45cmとばらつきがありますが、建物1と同じ布掘り構造で、太い柱を使っています。5本柱の中央の柱間隔が広く、建物1と同じような構造となっています。 建物の中央部や反対側の柱穴列がないので独立した棟持柱があったのか分かりませんが、布掘り方式で柱穴の構造が建物1とよく似ており、独立棟持柱建物と考えられています。 |
建物4の柱穴 (栗東市発掘調査報告書より作成) |
伊勢遺跡・下長遺跡の祭殿との比較
祭殿の建設方法の違いや類似性が見られます。・布掘り構築方法は、伊勢遺跡では見られないが、下長遺跡では見られる。
・長い柱を立てるために斜路を使うのは、共通。
・一部の柱穴に石を敷き詰める方法は伊勢遺跡でも見られる。
建築方法は、「大型建物を建てる」という点では共通するが、布掘り構築は、技術工人の違いかもしれません。
建物構造で見てみると
・テラス付きの建物は、伊勢遺跡でも1棟存在する。
・伊勢遺跡の全ての祭殿には心柱があるが、下鈎遺跡の祭殿には見られない。
下長遺跡でも同じことが言える。心柱は伊勢遺跡独自の形式である。
伊勢遺跡でも、祭殿以外の建物には心柱がない。
心柱は祭祀の対象や形式に関わるものなのかもしれません。
特殊な建物・遺構
上に紹介した祭殿に近接して特殊な形の建物が見つかっています。祭殿と共に利用されていた建物と考えられます。建物3 (副屋) | 建物5 (祭殿4) | 鳥居状遺構 (門状遺構) | |
柱構造 | 2間×?間 | 1間×?間 | 主柱2、側柱2 |
建物面積 | ? | ? | |
大きさ | 8.8m×?m | 2.7m?×?m | 柱間隔 約4m |
独立棟持ち柱 | なし | あり | |
心柱 | なし | ? | |
残留柱根 | なし | なし | 主柱2本 |
その他 | 平地式 |
【建物3(副屋)】
建物3は建物2の東側10数mの直ぐ近くに位置し、建物2とは直角方向に建てられていました(L字配置)。 発掘範囲外に広がっているため、大きさは分かりませんが、柱穴が小さく間隔も広いため平地式の建物と推定されています。 伊勢遺跡でも、方形区画内の主殿とL字配置されている平地式建物があります。主殿に寄り添う副屋と考えられており、奇しくも下鈎遺跡の建物2と建物3の関係によく似ています。 |
建物3 復元想像図 (CG:小谷正澄) |
建物5(祭殿4)】
北の祭祀域の西端に独立棟持柱建物と推定される建物の柱穴が見つかりました。多くが調査範囲外のため大きさが分からないのですが、柱穴から推定される柱の太さは20〜25cmで建物2より細くなっており、小ぶりの独立棟持柱建物と思われます。
建物5 柱穴 (栗東市発掘調査報告書より作成) |
建物5 復元想像図 (CG:大上直樹) |
伊勢遺跡でも、方形区画内に小型の独立棟持柱建物が見つかっており、祭祀用の倉庫ではないかと考えられています。下鈎遺跡のこの建物もそのような目的だったかも知れません。
【鳥居状遺構】
南側の祭祀域の西方約50mのところに、大きな柱穴が2個、約4mの間隔で見つかっています。その柱に接近して両サイドに側柱の跡が見つかっています。
鳥居状遺構の位置 |
柱穴と溝 |
柱根 |
主柱の柱穴は88cm×60cmおよび85cm×72cmと大きく、祭殿の柱穴と同じように斜路がついています。このことから、太くて長い柱を立てていたことが判ります。残された柱根の太さは38cmで、建物1の側柱と同じ位のものです。2本の柱が鳥居状になっていたのか、門柱状なのか分かりませんが、門柱として他に例を見ない大規模なものです。
側柱の柱穴は約30cm程度と主柱に比べると細く、支柱というより形式的なものかも知れません。 自然流路から延びる溝の上に建てられており、区画溝の意味合いも見てとれます。
「建物の位置」の図に位置を示していますが、鳥居状遺構は、建物1と建物2の間に溝を設けその上に建てられており、祭祀域西側と東側を区切る結界のようにも思えます。
建屋の配置構造
祭祀域の建物配置
【南部祭祀域:祭殿2と副屋】
後の章で述べますが、南部の祭祀域では「水の祭祀」を行っていたようで、祭祀場の東には祭殿2と副屋が並んでいました。(栗東市発掘調査報告書より作成)
祭殿2と副屋はL字型に配置されており、2つの建物の間には柵が設置され、そこに出入口を設けてありました。
これらの2つの建物は、南西側を区画溝で区切り、その中に柵を設けて外部との間を2重に区切っています。
祭祀域を区画溝と柵を用いて区切るやり方は、伊勢遺跡でも見られています。祭祀域の在り方について共通する認識があったようです。
【北部祭祀域:祭殿と竪穴建物】
北部祭祀域では、川が円弧を描いて流れており、その内側には大きい溝が掘られています。溝は途中で途切れており、そこが出入口となっていたようです。
川の東側の岸辺には大きな祭殿3が建っています。 大溝の西側には大型の竪穴建物と中型の独立棟持柱建物(祭殿4)が建っています。この建物配置から考えると西側にさらに祭祀域が広がっており、何らかの施設があったと考えられます。 ここで注目されるのは、大型竪穴建物です。 弥生時代後期では、この地域には掘立柱建物しか見つかっておらず、唯一の竪穴建物が、大溝で囲まれた内部に見つかっています。また、隣接して中型ながら独立棟持柱建物が建っていました。 これらのことから、この竪穴建物は何らか特別の目的をもって建てられた施設と考えられます。 「青銅器生産」の章で述べましたが、竪穴建物の地層から銅残渣が出土しています。 |
北の祭祀域の建屋配置 (栗東市発掘調査報告書より作成) |
祭祀域の掘立柱建物
南の祭祀域に数棟の掘立柱建物が見られます。鳥居状遺構のところに3棟、祭殿1の近くに1棟、これらは1間×(2間〜3間)の柱構造で、面積は10〜30uです。住居というより、祭祀にかかわる建物であったと考えられます。
居住域
祭祀域周辺では、居住域は見つかっていませんが、南北2つの祭祀域の中間に居住域があります。ここでは掘立柱建物と周溝付掘立柱建物が見つかっています。
周溝の中に建物があるのは1棟だけですが、発掘調査の端のところで周溝が出ており、溝に対応する建物部分は発掘範囲外となります。
居住域の建物配置 (栗東市発掘調査報告書より作成) |
周溝付竪穴建物 (絵:中井純子) |
弥生時代末〜古墳時代初頭の建物
建物の位置
弥生時代後期末、卑弥呼を女王として共立し、新倭国が誕生します。原倭国の中核であった伊勢・下鈎遺跡は卑弥呼の共立を以って役目を終えることになります。この時、集落自体が全く廃絶されるのではなく、古い祭祀の象徴であった祭殿が解体され、南北の祭祀域から祭殿と関連建物が無くなります。柱が抜かれた祭殿は、解体されたと推定されます。柱根が残された祭殿は、そのままの状態で放置されたのでしょうか?
古墳時代早期の建物
(栗東市発掘調査報告書より作成)
南の祭祀域では建物が無くなり、人々が住まなくなりました。
北の祭祀域では、祭殿が無くなった跡地に新たに建物が建てられます。
居住域
新しく建てられる建物は、弥生時代後期と同じく、掘立柱建物と周溝付掘立柱建物の2種類です。 祭殿が廃絶された後は、一般集落として使われていたようです。祭祀空間跡地の建物
(栗東市発掘調査報告書より作成)
伊勢遺跡でも下鈎遺跡も同様、祭祀空間の跡地には新しい住居が建てられ、居住空間となります。 大きな社会変動があって、祭祀域がなくなり住宅地に変化した様相です。