環濠
環濠の全体像は分かっていないのですが、円周上を巡る6〜7か所で溝が見つかっており、また当時の近隣の環濠集落と規模もほぼ同じで、環濠とみなされています。
この環濠内に弥生中期後半の下鈎遺跡が栄えていました。
この環濠内に弥生中期後半の下鈎遺跡が栄えていました。
環濠の様子
環濠の見つかっている場所
環濠の見つかっている個所の詳細を図に示します。見つかった濠を結ぶと、ややおむすび形の環濠となり、東西方向が約410m、南北方向が約370mの環濠となります。
特徴的なことは、北部の環濠(図中、2004〜1995〜1997〜B区)は2重になっていることで、2つの環濠の間隔は約6m〜7.5mです。(注:環濠部分の同定のため発掘年や区域名を使います)
下鈎遺跡の環濠は2重環濠であった可能性があります。
南部の1983環濠は発掘範囲ギリギリのため、1重の環濠は範囲外とも考えられますが、1985環濠では完全に1重です。
1997環濠は2重環濠ですが外環濠が途中で途切れています。ひょっとして、ここが環濠の入り口だったのでしょうか? 戦国時代の城郭のように、内周環濠と外周環濠が段違いになっていて、直進で侵入できないようにする工夫だったのかもしれません。
環濠の発見か所と環濠の構造 (滋賀県、栗東市 発掘調査報告書より作成)
表 環濠の断面の大きさ(単位:m)
(2004 環濠は図面のみで数値データなし)
環濠 | B区外周 | B区内周 | 1985 | 1983 | D区 | 1995 | 1997内周 | 1997外周 |
幅 | 1.8〜3.5 | 1.6〜2.7 | 1.5〜2 | 2.5 | 2〜3 | 3.5 | 1.3〜2.0 | 2.5 |
深さ | 0.8〜1.1 | 0.4 | 1 | 1.0 | 0.5〜0.6 | 0.5 | 0.2〜0.5 | 0.5 |
環濠の幅は1.3〜4mと広いものの、深さは0.5〜1mと結構浅い感じです。
このデータは、遺跡検出面での測定値なので、環濠上部が後世に削平されて見かけ上浅くなったのかもしれません。次節で述べますが、後世の環濠面の削平は多いところで50cm程度と考えています。
気になるのは、「大きな川と環濠との接点部分がどうなっていたのか?」という点ですが、発掘調査の範囲では明らかになっていません。
環濠の形状から集落の性格を読む
弥生時代の環濠は、外敵を防ぐために幅が広く、断面はV字型をした深い濠と言われています。弥生時代中期には野洲川下流域に数か所の環濠集落がありました。時期と集落規模が似た3つの環濠集落を比べながら下鈎遺跡の性格を考えます。
環濠の規模
下鈎遺跡から北へ4.5kmあたりにある下之郷遺跡は、弥生時代中期の、下鈎遺跡に先行する環濠集落ですが、6重〜9重の大きくて深い環濠を持っています。まさしく、上に記した防御用環濠という説明にぴったりの集落です。下之郷遺跡は、弥生時代中期の終わりを待たずに衰退し、すぐ隣にニノ畦・横枕遺跡という環濠集落が、少し離れて下鈎遺跡が誕生します。両遺跡は衰退期の下之郷遺跡と一時的に重なっています。
この3つの環濠集落を比べてみました。図面の縮尺は合わせています。
同時代・同地区の環濠集落の比較(守山市、栗東市 発掘調査報告書より作成)
環濠の大きさは下鈎遺跡が少し小さいものの、ほぼ同規模です。
下之郷遺跡が内周環濠と外周環濠の大きな2重構造になっており、それぞれが多重環濠となっています。2重防御のためと考えられます。おそらく内部に重要な機能を持つ施設があったのでしょう。
その点、居住集落であったニノ畦・横枕遺跡は1重環濠です。下鈎遺跡を造営するとき、下之郷遺跡の存在を知っていながら2重(一部1重)環濠としたのは一般集落と考えていいでしょう。大きな川が流れている低地に環濠集落を作った・・ということは、防御の必要性は低く、「環濠集落」の体裁をとっただけとも考えられます。
環濠の断面
3つの遺跡の環濠の断面を比べてみます。下之郷遺跡の第1環濠(最内周)は幅が5〜8m、深さも2〜3mと大掛かりです。
第2環濠はやや小ぶりになりますがそれでも大きな環濠です。
一方、ニノ畦・横枕遺跡の環濠は、幅、深さともに小ぶりになります。
次の項で述べる環濠の削平も考え合わせても、下鈎遺跡の環濠も規模が小さくなっています。時代の推移とともに防御用の目的が薄くなっていったように見えます。
環濠集落の環濠断面
(守山市発掘調査報告書より作成)
環濠の間隔
下之郷遺跡の多重環濠は等間隔で並行して走っている美しい環濠集落です。下鈎遺跡の環濠も、部分的とはいえ2重の環濠が並走しています。この環濠の間隔にも意味があると考えます。
下之郷遺跡の3重環濠は、約5m幅の環濠が、環濠中心間隔約10mで並んでいます。環濠間のフラットな部分には土塁を築き通路もあったでしょう。 掘り上げた土を遠くに捨てず、環濠の横に土塁を築くにはこれくらいのスペースが必要なのでしょう。 下鈎遺跡の環濠は後世に削平されており、当時の環濠幅、深さはもっと大きかったと思われます。そこで、下之郷遺跡の環濠と比べると、下鈎遺跡の環濠間隔は約6.5mで、一回り小さな環濠になります。下鈎遺跡の環濠が機能していた時代には、幅が2〜3.5m程度、深さは1m程度と考えられます。 |
多重環濠の間隔 【図:田口一宏】 |
まとめ
環濠の姿から集落の性格を読み解くと、下之郷遺跡は広域の中核集落で重要な施設・要人がいて厳重な防御の環濠が造られたと推測されます。ニノ畦・横枕遺跡は、大型竪穴住居が立ち並ぶ、身分の高い富裕層が住んでいたムラでしょう。下鈎遺跡の環濠は一回り小さく、その地形と集落の中を大きな川が流れていることから、辻川さんが示唆されたように「物流の中継拠点であった」と考えられます。状況証拠からはその可能性は高いのですが、河川水運〜物流の中継に携わっていたことの直接証拠となるような遺物・遺構は見つかっていません。