水辺の利用
弥生時代にはどのように水を利用していたのでしょう。
「井戸」というと、現代のわれわれは飲み水を汲む井戸を思い浮かべますが、当時の井戸はマツリ用の水を得るための施設だったという見方があります。では水をどのようにして使っていたのか、その一端をうかがわせる施設が見つかっています。
「井戸」というと、現代のわれわれは飲み水を汲む井戸を思い浮かべますが、当時の井戸はマツリ用の水を得るための施設だったという見方があります。では水をどのようにして使っていたのか、その一端をうかがわせる施設が見つかっています。
生活の場として
祭祀域の北限を区切る川のすぐ北側で、居住域に隣接する川の傍に水場遺構と見られる場所があります。水場遺構のある場所(左)と 水場遺構(右)
(滋賀県発掘調査報告書より作成)
川の屈曲部から引き出した人工的な溝が造ってありました。長さは7m程度、幅は3〜4mです。
溝の先端に接して土坑が掘ってありました。突出部には杭が2本打ち込んであり、横木が渡してあります。川から取り込んだ水の量を調節する堰(せき)のような役割でしょうか。
祭祀域外で居住域に接していることから、生活の場で使う水を取り出して使っていたと考えられます。 このような施設は、弥生時代後期の遺構からも見つかっており、当時の水の使い方を垣間見させてくれます。 このような場所は人々の活動も活発であったようで土器、石器やさらにドングリや木器などの日常生活を伺わせる遺物が出土しています。 滋賀県湖西地方では、かばた(川端)と言って川の水を屋敷内に引き込み、水場として使っていましたが、上の水場遺構とよく似た感じです。弥生時時代の「かばた」でしょうか。 |
水場遺構の推定模式図(絵:田口一宏) |
水場状の遺構
前節で述べた水場遺構から北へ100m強のところに弥生中期の水場状遺構がもう一つあります。見方によっては、導水施設状の遺構とも見える施設です。後世の大きな溝で上部と下部が切られているため、全体像は判別しにくいのですが特異な遺構です。
水場状遺構の場所(左)と水場状遺構(右)
(滋賀県発掘調査報告書より作成)
土坑Aには3〜5cmの丸みのある礫を敷き詰めてあり、特別に手をかけた土坑になっています。土坑Aと溝Aは前節の水場遺構とよく似た構成です。溝Bにつながる土坑Bは後世の溝で切られており、下流側の様子が判りません。
土坑Bで止まっておれば、土坑A+溝Aと対称的な水場遺構となります。
土坑Bの先につながる溝と河川などの排水系につながっておれば、導水施設状の遺構となります。
水場遺構であれば、各居住区に生活の水場があっても当然です。もし、導水施設だとしたら、集落の首長が執り行うと考えられている祭祀が、居住域ごとに行われることになり、祭祀の在り方にかかわってくるややこしい存在になります。土坑Cも水場の使い方として気になる存在です。